枢機卿およびリシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシー

フランス西部の小貴族の三男として生まれ、カトリック協会の聖職者の道を進んだ。

1607年に司教叙階を受け、1609年にリュソン司教に任じられた。1614年の全国三部会に聖職者代表として出席し、そのときの活躍が認められて政界入りした。

ルイ13世と母后マリー・ド・メディシスとの政争に巻き込まれ一時失脚するが、才腕を認められて1622年枢機卿に任じられ、1624年、首席国務大臣に任じられた。当時、ドイツを舞台に起こっていた三十年戦争をめぐる外交姿勢(リシュリューは介入に積極的)などをめぐって母后マリーと対立したが、1631年にマリーがロレーヌ公のもとへと逃れていった。