サンジャクまたはラシュカはセルビアとモンテネグロの国境にまたがって広がる地域の名称。イスラム教徒、ボシュニャク人が多い地域として知られる。その名称は1912年のバルカン戦争までこの地を支配したオスマン帝国の地域区分であるイェニ・パザル・サンジャク(イェニ・パザル・サンジャイ、意味はノヴィ・パザル県)に由来する。ノヴィ・パザル・サンジャクとして知られ、サンジャクとはトルコ語で県を意味する語である。地域で最古の居住者はトラキア人であった。紀元1世紀、この地域はローマ帝国に征服され、6世紀から7世紀にかけてスラヴ人、セルビア人の部族が住むようになった。 中世において、この地域はセルビア人の国家・ラシュカとなった。ラシュカの首都はラスであり、現在のノヴィ・パザルの場所に位置していた。地域はその後も15世紀にオスマン帝国に征服されるまでの間はセルビア人国家の所領であった。 オスマン帝国の支配下では、ノヴィ・パザル・サンジャクはボスニア州の一部であったが、1878年にコソボ州の一部となった。1878年のベルリン会議によってオーストリア=ハンガリー帝国軍のサンジャクへの駐留が認められ、1909年まで続いた。1912年10月、サンジャクはバルカン戦争においてセルビアおよびモンテネグロの軍に制圧され、セルビアとモンテネグロによって分割された。多くのボシュニャク人およびアルバニア人のイスラム教徒の住民が、セルビア・モンテネグロ当局の弾圧を逃れ難民としてトルコへ脱出した。イスラム教徒のトルコへの脱出は1912年から1970年ごろまで続いた。現在トルコに住む100万人以上の住民がサンジャク出身者かその子孫である。トルコにはエディルネ、イスタンブール、アダパザル、ブルサ、サムスンなどやその周辺に、複数のサンジャク出身のボシュニャク人の入植地がある。 第一次世界大戦の1914年から1918年までの間、サンジャクはオーストリア=ハンガリー帝国の占領下におかれた。1918年、ユーゴスラビアの前身であるセルブ・クロアート・スロヴェーン王国の成立(1922年)に先立ってセルビアとモンテネグロが統合した。1929年から1941年までの間、サンジャクは新設されたユーゴスラビアのゼタ・バノヴィナ州に組み込まれ、その州都はツェティニェであった。