クリミア半島のヤルタ

ヤルタ  14世紀にヤルタはジェノヴァの商人の居住地としてこの地方における交易のネットワークの一部に組み込まれ、エタリタあるいはガリタと呼ばれた。クリミア半島は1475年にオスマン帝国に征服され、オスマン帝国の半独立的な属国であるクリミア・ハン国に組み込まれた。

しかしヤルタを含む南岸部はケフェ州としてオスマン帝国の直轄領とされた。ヤルタは1783年、他のクリミア半島地方とともにロシア帝国に併合され、露土戦争の引き金となった。クリミア半島の併合に先立つ1778年、クリミアのギリシャ人たちはマリウポリに移動した。同地でギリシャ人が建設した村もヤルタと呼ばれる。 19世紀には、町はロシアの貴族や上流階級の人々のための高級リゾート地となった。作家のレフ・トルストイアントン・チェーホフらはヤルタで夏を過ごした。アントン・チェーホフは『三人姉妹』『桜の園』などを書いた。ヤルタはチェーホフの「犬を連れた奥さん」の舞台ともなっている。町はまたロシアの皇族とも深いつながりを持っている。

1889年、ロシアの皇帝アレクサンドル3世はヤルタの北にマサンドラ宮殿を建設し、1911年にはニコライ2世が南西にリヴァディア宮殿を建設した。 20世紀の間、ヤルタはソビエト連邦随一のリゾート地となった。1920年ウラジーミル・レーニンは「クリミアの労働者の療養のために使用するにあたって」との布告を発し、この地域をきらびやかで高級なリゾート地から疲れたプロレタリア労働者のための療養の地へと作り変えることを推進した。

ヤルタ周辺には、労働者のためのサナトリウムがいくつも建設された。