モンゴル帝国

モンゴル帝国においてはチンギス一門に譜代の家臣として仕え、帝国や帝国を形成する諸ウルスの政策決定に与る幹部武将をモンゴル語でネケル(nökör)と呼んだが、これをペルシア語史料ではアミール・イ・ブスルグ(Amīr-i buzurg)や省略形で単にアミールと表記している。当時のモンゴル語では、チンギス・ハン王家に関わる役職や事柄には語頭に「大」を付けて他の一般的な事柄とは区別していた。ペルシア語文献ではこれにあたる単語を上記のブズルグ(buzurg)やアラビア語のアアザム(a'a ẓam)、ムウタバル(Mu'tabar)などの単語で表した。ペルシア語のこのアミール・イ・ブスルグを語義通りに「偉大なるアミール」や普通のアミールと解釈してしまい、単なる武人の長を指すアミールと混同してしまうと、モンゴル帝国やその後継政権の政権構造の理解を妨げるので注意が必要である。  モンゴル帝国に参与していた諸部族の首長たちは、モンゴル語やテュルク語ではノヤン(noyan)やベク(bek/beg)と称していたが、これのアラビア語・ペルシア語での訳語がアミールであった。いわゆるチンギス・ハンの千戸体制において、十戸から万戸までの部隊を各々統括していた隊長たちがベクでありその訳語であるアミールで呼ばれていた。すなわちペルシア語では、これら十戸長をアミール・イ・ダハ(Amīr-i dahah)、百戸長をアミール・イ・サダ(Amīr-i ṣadah)、千戸長をアミール・イ・ハザーラ(Amīr-i hazārah)、複数の千戸を統括する万戸長をアミール・イ・トゥーマーン(Amīr-i tūmān)といった具合に呼んでいた。ティムール朝を開いたチャガタイ・ウルスのバルラス部の首長であるティムールは「アミール・ティームール・クールガーン」などと称されるが、彼の場合もまたこの種のモンゴル帝国の制度的意味の上に立脚したアミールである。