東ローマ帝国の歴史家テオファネス

東ローマ帝国の歴史家テオファネスによれば、この時のアラブ人の襲来は組織的なものだった。672年から673年にかけて、アラブ人の艦隊が小アジア沿岸に基地を確保し、コンスタンティノープル周辺に緩やかな海上封鎖を敷いた。

ウマイヤ海軍はマルマラ海南岸のキュジコス半島を冬営地とし、春になるたびにコンスタンティノープルの要塞を攻撃した。しかしコンスタンティノス4世率いる東ローマ海軍は、最終的に「ギリシアの火」の名で知られる新発明の液状焼夷剤を投入しウマイヤ海軍を壊滅させた。また東ローマ陸軍も小アジアでウマイヤ軍を破り、コンスタンティノープルを包囲する軍勢を撤退させることに成功した。この勝利によりウマイヤ朝の圧力はしばらく弱まり、東ローマ帝国は生き残ることができた。

しばらくしてウマイヤ朝東ローマ帝国と和平を結んだが、間もなくイスラーム世界は第二次内乱に突入し、東ローマ帝国が逆に優位に立つ時代が訪れた。