コブレンツ

紀元前8年前後に大ドルススによって、ローマ帝国の駐屯地としてこの地にカストルム・アプド・コンフルエンテス("Castellum apud Confluentes")(合流点の城砦の意)と称される城砦が築かれた。コブレンツの名はラテン語(ad) cōnfluentēs(合流点)に由来する。このラテン語名は、ガリア語Condate(「合流地」)の直訳借用語かもしれない。砦近くに商人の集落も形成されたが、古代末期に破壊された。中世には、トリーア大司教領のもとで繁栄し、ハンザ同盟にも加盟した。フランス革命において、フランスの支配下に置かれる。19世紀前半、ウィーン議定書の取り決めに基づき、のちのドイツ帝国の中心となるプロイセン王国支配下へと入る。