クリミア戦争と改革勅令

シチリア革命、パリ二月革命、ウィーン三月革命、ベルリン三月革命など、1848年はヨーロッパに革命の嵐が吹き荒れ、それは北欧、東欧をも巻き込んだ。1848年革命はしかし、まもなくそれに対する反動の嵐をも引き起こして、オーストリア帝国ロシア帝国で弾圧された大量のハンガリー人やポーランド人がオスマン領内になだれこんだ。ロシア政府はオスマン帝国に対し、亡命者たちの身柄を引き渡すよう要求したが、オスマン帝国政府はこれを拒否、ヨーロッパのリベラルな世論からは歓迎された。一方、「諸国民の春」の状況はオスマン帝国にとっても諸刃の剣であり、帝国領の一部、バルカン半島ブルガリアでは、1850年に大規模な農民反乱が起こっている。これは、ブルガリア農民がギュルハネ勅令の「約束」を信じ、ムスリムの地主層から課せられていた強制労働などの「封建的義務」を拒否したことに端を発していたが、中央政府バルカン半島支配は、むしろこうしたムスリム地主層の土地所有や「封建的義務」そのものに依存していたために、勅令に示された方針を貫徹することができなかった。ヴィディン(ブルガリア)の農民反乱に対してもオスマン帝国軍はこれを完全に鎮圧することができず、わずかにアーヤーン連合の私兵によって抑えられたにすぎなかった。

これに対して、ロシアは「東方問題」を利用して南下政策をすすめようと、オスマン帝国内における東方正教会の信徒の保護と聖地イェルサレムにおける正教徒の権利拡張を名目に兵を進め、1853年、オスマン帝国との間にクリミア戦争が勃発、オスマン帝国単独の戦闘では劣勢がつづいたが、トルコを支援するイギリス・フランスが参戦して激しい戦いとなった