1908年10月6日 ボスニア・ヘルツェゴビナ併合  

ボスニア・ヘルツェゴビナ併合は、1908年10月6日、青年トルコ人革命の混乱に乗じたオーストリアボスニア・ヘルツェゴビナの併合を宣言した事件。これによって「ボスニア危機」(「バルカン危機」)が生じた。また、ボスニア・ヘルツェゴビナ併合問題が結局のところセルビアの敗北に終わったにもかかわらず、「ボスニア危機はセルビアを辱めなかった。セルビアの水準に引き下ろされたオーストリアハンガリーを辱めた。」すなわち、セルビアでは大セルビア主義がますます力を持ちオーストリアを敵視するとともに、併合されたボスニア・ヘルツェゴビナにも反オーストリアを標榜する「青年ボスニア」運動(Mlada Bosna, ムラダ・ボスナ)が台頭し、この運動から後年のサラエヴォ事件の実行犯グループが形成された。ロシアはパン・スラブ主義を掲げて南スラヴ人の運動を支援し、パン・ゲルマン主義のオーストリアと対立を深めていくことになった。