ドナウ連邦

第二次世界大戦が勃発した当初は、小国が乱立することによって中欧情勢が不安定化したという認識が支配的であった。当事国の指導者だけでなく、亡命者を受け入れる立場となった連合国側もこの地域の連邦化を積極的に支持した。やがて大戦後期になるとソビエト連邦ナチス・ドイツに対する攻勢を強め、中欧地域におけるソ連の影響力が増大した。このため、小国乱立による不安定な情勢の解消というよりも、もっぱら中欧共産主義化を防ぐための手段として連邦を作ろうとする動きが活発になった。 ソ連による中欧支配の危険を察知したウィンストン・チャーチル英首相は、考えられるソ連支配に対抗する平衡力として、中欧に連合組織を準備したいと考えた。

1941年6月以後、イギリスとソ連のあいだで、オーストリアの戦後についての話し合いの場が持たれたが、この会談においてイギリスは、二種類の連合形成案による解決を提唱した。 ドイツからバイエルンとラインラントを切り離し、オーストリアと結びつける案(カトリック系ドイツ民族の集合体) ウィーンを首都とする「ドナウ連邦」を形成する案(ハプスブルク君主国の歴史的共同体)

ソ連ヨシフ・スターリン書記長は、後者のドナウ連邦が反ソ的な性質のものになるだろうと判断して前者を支持したが、イギリスは大戦が終結するまでひたすらドナウ連邦の実現を主張した。1943年のテヘラン会談においてチャーチル首相は、バイエルンオーストリアハンガリー・ラインラントの連合を提案したが、チャーチルはこの考えを、1944年10月のスターリンとのモスクワ会談でも、1945年2月のヤルタ会談でも繰り返し述べている。